昭和43年3月6日 朝の御理解


御理解 私は以前に、大阪の阿倍野教会にお参りさせて頂いた事があった。その時には玉水にも、それから泉尾にも、あのお参りをさしてもらいました。どこも大変な盛んな教会です。朝参りが千人もあろうかという様に、御ひれいの立つ教会ばっかりでございますが、たいしたとこだなあ、とこう思う所ばっかりでしたけれども、阿倍野の教会に参りまして今でも忘れられない事は、青年会の集会ですかね、共励会が、そこに掲示がしてあります様に、掲示がありました。その掲示のおかげ話発表会青年会と書いてありました。泉尾の教会、泉尾じゃない阿倍野教会ね、成程、御ひれいを頂いておられる所の教会は違うなと。まあわたしゃ、結局その事だけがいつまでもこう忘れられない印象でしたが。今の金光教では、例えば信徒会なんかでも、おかげ話なんかしとったらおかしい、いわゆるおかげ話ではつまらん、とこうね。信心を語らなければならない、という、その傾向が非常に強いのです。おかげ話というのは、ありゃもう影だから、カスだから、ありゃもうどこまでも影だと。確かにその、もうけれども、そのおかげ話というのは神様の生きた働き、その実証ですからね。それがめいめいの上に現れる、ね。金銭のおかげを頂いた。こういう病気を、おかげを頂いた。こういう人間関係の上におかげを頂いたといった様な、その近ごろの青年といえば、どこでもだいたい討論会という様な事に終わってしまう様な傾向が強いのにもかかわらず、もうおかげ話を発表会とこう書いてある。だからめいめいがおかげ話を発表しなければならない。成程、阿倍野の信心は素晴らしいなと私は思うたんですよ、ね。めいめいが、そのおかげ話を話せる。そこんところが私はここでも、やはりそうだとこう思う。やはりおかげ話が発表できなければだめ。問題はそのおかげ話がね、どういう径路というか、どういう道を辿っておかげが現れたかという所が問題である。ですから、そのもう、おかげが頂けない様な教会だったらもうおしまい。その頂いたおかげをです、その喜びがです、おかげを受けて有難い。お繰り合わせを受けて有難い。それがですね、やはり発表しなければおられない、お話をしなければおられないという事になって来るんですから、やっぱりおかげ話が大事。また、おかげを頂けれる信心にならなきゃだめなのです。ただお願いをしておかげを頂いたというのでは、結局、その難儀な問題を通して、お取り次ぎを頂かしてもろうて、ここをわからしてもらい、ここをこう信心さしてもろうたら、こういうおかげが頂けたという事にならなければね。
 昨日も壮年会でございましたが、私、あの壮年会途中から入らして頂いて、お茶ができましたから、お茶菓子にお饅頭を頂いとったからお饅頭を出した。私が皆さんにね。まあ一つ食べられたところで「ちょいとそのお饅頭を食べるのやめなさい」と「あなたたちゃ、このお饅頭いくらすると思う」と言うてから、わたしゃ皆なに値段を皆なに聞きました。小さいお饅頭なんですよ。そりゃあ皆な、「まあ二十円くらいでしょう」「こりゃあ三十円くらいするでしょう」という人もあったんですけれども、本当の事の言える人は一人もいなかったと。博多の上用饅頭。昨日渡辺先生がお供えされた饅頭でした。ちょうどね、お昼頃でしたから、私と家内とあと二、三人でお茶を頂きながら、家内はあんまり甘い物食べません。けども「奥さん【  】あがって下さい」【   】頂きよりました。それであの「饅頭も三十円もするそうですね」と家内が言いよりましたら「いいえ、それは三十五円もします」「はあ、三十五円もする饅頭ですか」で、私がそれを皆なに頂いて頂きましたらですね、だあれも三十五という、もう食べてしもうておる人もあった。もう二十円の饅頭と思った人もあった。だから私は「もう一度食べなおしなさい」と、私(笑)これだいたい三十五円ですよ。成程、三十五円と思うて、聞いてから頂いたら、やっぱり三十五円が、もうがわといい、あんといい成程三十五円の値打ちがあるわけです。けども知らんで頂いたぶんちゃ、まあせいぜい二十円とか、まあ高く言う人で三十円とこう言うておる。私も以前、こりゃあ三十円もするというて聞いとった事がありますが、まあ三十円と思うとった。家内もその事を聞いとったらしいですよ。この饅頭は三十円もするちゅう事を。三十円もこりゃするというと、いいえこりゃ三十五円しますとこういう。昨日、私も夕食を頂かしてもらったら、お菜に新ワカメに新しらうおの酢の物がしてあった。なかなかおいしんですよ。それに、あのきゅうりがこう刻み込んである。おいしいねってこう頂きよるんです。ところが、それに短冊形に細かく白い物が入って来るんですよ。もうほとんど半分から食べてからでした。この白いのは何かと言ったところが、「そりゃあ、あなたうどですよ」とこういう。さあ聞いたら、もう、うどの匂いがプンプンしだす。人間てそんなもんです。私もだいたい鼻がきく方ですけれどもね、知らない間は、ただ新ワカメが、いわゆる季節の食べ物としてですね、白うおが入れてあるだけでもおいしい酢の物、それにきゅうりがこりゃわかる。ところが小さく短冊に切ってあった、そのうどが何か大根かなんか切ってあると思うとった、その間は匂いはしなかったけれども、ほんなこて、こりゃうどの匂いがプンプンしよる、という様にですね、うどと聞いて初めてうどの匂いがする。信心も同じ事。これ三十五円と聞きゃあ三十五円がたの有難さというか、成程三十五円がたあるなという事になって来るんです。だから、わたしゃあ、おかげ話がなからなければ信心の値打ちないと私思う。ほう、ほうと思う様なおかげ皆さんが頂いとられる。しかもその人の心次第でです、ああいう信心次第でです、その修行の如何によって、そのようなおかげが受けられるのだ、ね。ですから私はおかげ話がなからにゃいかん。けれども、そのおかげ話がですたい、この様なあり方にならせて頂いて、この様な信心さしてもろうて、こういう修行させて頂いて、こういうおかげを受けたという事でなからなければならない。そういう意味で、私は合楽はとても阿倍野の教会の行き方でなからなきゃいかんとこう思う。今の信徒会なんかではおかげ話をすると、もうそげなおかげ話じゃいかんちゅうてから、もう頭から言われる傾向があります、ね。けれども、まあまあ、このおかげ話の一つの起こった元を聞いて下さい。その元を言う前にです、やはりおかげ話をしなければ、いくらがた【   】が半減してしまう。金光様の御信心ちゃ素晴らしい、と、ね。だから皆さん私は【   】恩きせがましゅうする為にあんた達に、値段を聞きょうるんじゃないよ、と私は言うわけです。「三十五円のものがあんた、二十円とされて、こげんもったいない話があるもんね。まあ、いちっと食べなおしなさい」と私が言う、ね。三十五円もすると思うて頂くから、成程三十五円が、その値打ちが成程あるなという事になる。
 今日、私、いろいろ心の中に心配になる事があった。だから、つい御祈念も長ごうなってしまう。心配というか、心にかかる事がいくらもある。十日の津田先生の講演会、昨日、はがきが案内のはがきがでけてきとった。それにはもう、徹頭徹尾、親切な書き方をしてございますからわかるんですけれども、バスも、こっから二台出るとこう書いてあった。そのバスが本当に、きちっと約束ができて来ておるんじゃろうか。書いてはあるけれども、まあ、ちゃんと交渉ができておるんだろうかと、これがちょっと心配になった。十一日には青年教師会がある。北九州の青年教師の会がここに沢山集まって来られる。それに、ここの婦人部の方達は、どこか工夫して考えおるじゃろうかと、沢山の人の、いわば所帯をしなければならん。それで代表でどこがでけておるであろうか。また、どういうふうに献立の事なんか工夫してあるだろうかと。もういうならば、日頃の形とすればですね、もう別に気にもかからない様な事なんかしきりに気にかかる。二日間にわたってのそれである。ほかに二~三、この頃若先生が、今度ラジオの放送せんならんというが、この頃原稿があったが、もう教師の出してもろうとるけど、うちの原稿がなからなければ、出したのと話が違うちゃあいかん。それでこの頃、ま、夕べ私ちょっと、火燵の間にいつも置いてあったのがないです。「あら、なくしてしもうておる。どうする。どこらへんじゃったじゃろか。忘れんごと、今日聞いてみなけりゃいけない」もういうならば、つま-らない事なんですよ。私にとっては。けども、それがしきりに、今日気になるんですね。そしたらね、一番最後に頂きます事が、いわゆる合楽の楽という字ね、楽という字をこんなふうに書いてある。白いという字を真ん中に書いてあるでしょう、ね。白いという字を、そして下に木がね、横に糸篇がこうついておる。その白を書いて木が書いてある、ね。白というのは、私は白紙という事だとこう思っておる。自分の木は心ですから、そげな事はもう心配をするなという事。もうそんな事言うたり聞いたりする事はいろうかとこういう事。お前の信心がいつでも、いわゆる、それこそどうでも良いと言ようるじゃないか。そのどうでも良いという気になれよと。けれども折角、まあ私の心の中に、よそから先生方が沢山見えるのに、または、青年教師会、折角若先生が放送を依頼されておるのにね、というその、何か老婆心が次々と走ってくる。きちっとできとるであろうか、十日のそのお参りの時の手配というのは、皆なだいたいきちっと、その責任者なんか出来てから、どうかしてあるだろうか、という様なその何でもない様な事が気にかかってたまらん、ね。そういうふうな事がですね、気にかかってたまらない間はおかげにならんですよ。こりゃあもう私の体験から、ね、ところが気にならりながら、心配になりながらもです、おかげを受けておるという事実があるでしょ、皆さんの場合は。不安でたまらん。心配でたまらんね。また、自分の心の中にこういう汚いがころある、ありながらおかげを受けておるでしょうが、ね。だから私が言うのはね、そういうおかげでは、私が、今日はつまらんというのです、ね。一つも向上しない。ただおかげ話、そういうおかげ話なら、成程、現在信徒会で言うておられる様な、そういうそんなおかげ話じゃつまらんというのはその事なんだ。私の心に不安があった、心配もあったね。けども、お取り次ぎを頂いたら、御理解を頂いたら、私の心がもう本当に、不安のなからなきゃ心配もない。神様におすがりさして頂いとれば、いやそれでも心配は起こるけれども、心配する心で信心せよと仰るから、その為に一生懸命に修行さして頂いたら、心配もなくなって自分の心が安心である。自分の心が、いわゆる本当にどうでもよいといった様な心の状態にまで心が高められる。それに神様のあらゆる関係がとものうて、いわゆる糸がとものうて楽のおかげが受けられるのだ。こういうおかげを受けられるのだ。おかげとはこういう所から生まれて来るのだ。お取り次ぎを頂いて願うという事は、こういう難儀な問題を通してね、こういう難儀な問題を通して、私の心の中に楽な心を頂かせて下さい。白の心を頂かせて下さい、ね。いわゆる、その問題を通して、どうぞ信心をわからせて下さい信心、そこから生まれて来るおかげ、そのおかげにはそういう根拠というかね、それがある。ここのところが大事なのです。そういう信心が、そういうおかげの積み重ねがです、いよいよ神様を確信する事ができれる信心。いよいよどの様な場合に直面しても驚かんですむ信心が生まれて来るのですよ、ね。ですから皆さんに本当におかげ話をしてもらいたい、ね。昨日も、遅うに参られたある方が、もう大変な大きなお百姓さんなんですけれども、お金がないなんていう様な事はおかしいと思うけれども、本当にお金がなかった。ところが、もういよいよ今日お金がないと思よったら、ある方が植木を買いに来て下さって、お繰り合わせを頂いた。もうこりゃあいつもの事だけれども、神様のお働きに恐れ入ってしまうとこういう。お金がない、お金がないと言いながらです、やはりおかげを受けておるわけです。だからそういうおかげだけではいけない。やっぱりおかげ話を、最近のおかげ話を秋永先生がながながと話されておった。私、途中から聞いた。最近のおかげの、もうあかぬけして行く具合というものがです、ね、自分自身の信心が、たったちょこ-とばっかりあかぬけして来たら、今までかつて味おうた事のない信心の味わいと、また、おかげの味わいが頂けれると話をしょうられました。自分の信心がすこ-しあかぬけしてきたら、おかげがあかぬけして来たら、この信心をそこに語るところにです、おかげの話の値打ちがある、そういうおかげ話でなからなければならんのですよ。お互い、ね。おかげ話というのは有難い。饅頭の値段を知って食べる様なもの、ね。神経からでも、うどの匂いがプンプンしてくる。知らんで頂いたもんでは、いわば当たり前の食べ物、当たり前のお饅頭、けれどもおかげ話を聞いてみたりすると、心からの信心ちゃ有難いなあという事になってくる。しかも、そのおかげ話に、私がこう変わった、私がこうというそこんところがですね、大事にされる様なおかげ話が、めいめい発表でけれるおかげを頂かせてもらわなきゃならない。同時にその人の話の中から、私が普通でいうなら、御結界で座っておるとなら、問題に全然ならない様な事が、今日はどういうもんか気になってたまらなかった。ちょっと今申しました様な事柄が、ね。それで、ああ、ほんな事とこう自分がどうでもよいという白紙に返らせて頂いた事から、おかげが受けられるだろうとこう思うのですが、こりゃあ皆さんの場合だって同じ事、ね。そういう信心を目指して行かなければならない。楽のおかげ、いわゆる安楽のおかげね。いわゆる安心につながるおかげ、そういうおかげに、そういう心に現れて来るおかげでなからなければ、本当のおかげではない。